書名のサガレンは、樺太(サハリン)を宮沢賢治がこう呼んだことからという。サガレンとは、漢字で薩哈嗹と書き、語源は満州語説とアイヌ語説があると、筆者はあとがきで記している。
梯久美子といえば、近年、栗林忠道、島尾ミホ、原民喜といった評伝が話題のノンフィクション作家として有名であるが、知る人ぞ知る鉄道ファンでもある。
本書は、第一部〝寝台急行、北へ〟と第二部〝「賢治の樺太」をゆく〟から構成されており、その第一部の早い箇所で次のように記している。
「すでにおわかりと思うが、私は鉄道ファンである。列車に乗って旅することをこよなく愛しているが、一方で、〝歩く鉄道旅〟も趣味としている。ほかならぬ宮脇(俊三)氏によって広まった廃線探索である。」(24~25頁) 著者の廃線愛については、これ以外にも本書の端々に記されている。
余談ではあるが、著者は『廃線紀行―もうひとつの鉄道旅』(中公新書・2015年)を著わすほどの廃線マニアであり、私も評伝は読んでいないが、この本は即購入した。
それはともかく、本書は、著者が「台湾かサハリンの鉄道旅をしてみたい」といったことから始まったものである。
第一部は、ユジノサハリンスクからノグリクまでの613㎞、約12時間の寝台急行の旅がメーンであり、著者の主目的は、ノグリキからさらに北のオハまで通じていた軌間750㎜の軽便鉄道のオハ鉄道の廃線跡を見ることであった。
待望の寝台急行に乗車した筆者はこの寝台急行の名称が「サハリン号」であるかないかにこだわる。その回答は、あとがきで述べられる。
この列車の旅の友として、林芙美子の「樺太の旅」を読みはじめる。以後、芙美子の旅を辿る様相を見せる。著者の好奇心は旺盛で、芙美子が食べたロシアパンから北原白秋が訪れた残留ロシア人のパン屋、そして白浦(現ヴズモーリエ)駅でパンと牛乳を売るポーランド人、さらには先住民族、岡田嘉子の逃避行へと話題は尽きない。
芙美子が旅したのは1934(昭和9)年のことで、当時の樺太観光の目玉は北緯50度の「国境見物」で、彼女もそれを目指したのであろうが、結局は行かなかった。この顛末にも触れている。
本書の35頁にはサハリン州立博物館に展示されている国境標石の写真が掲載されている。国境には4つの「天測境界標石」(国境標石)と17の「中間境界標石」が設けられたことが、『樺太境界劃定事蹟』(樺太境界劃定委員・1910年・陸軍省)で分かる。これによれば、天測境界標石は、「青森縣産出ノ花崗岩ヲ用ヰ青森ニ於テ粗工ヲ加ヘ作業地ニ於テ彫刻ヲ行ヘリ」(166頁)とある。
しかし、劃定委員に同行した世界的地理学者の志賀重昂の1906年8月25日の日記によれば、「(前略)ボロナイ川岸の第二測點に達し、馬を下りると、此處には日本の石工が汗を拭ひつつ境界標石を彫刻して居る。これは参州岡崎の北に産せし最も堅き花崗岩にて、南面には日本領とて菊花の御紋章、北面には露國領として雙頭の鷲を彫るのである(後略)」(『大役小志』1116頁・1909年・博文館)
とあり、志賀の地元岡崎産の花崗岩とある。これは、志賀の地元愛から出たものであろうか、それとも4か所の内、第2測點が岡崎産であったのであろうか。岡崎居住者としては、岡崎産であることを願いたい。なお、『樺太境界劃定事蹟』と『大役小志』は、国会図書館のデジタルコレクションで読むことができるが、余談はここまでにしておこう。
終着駅ノグリキでは、オハ鉄道の鉄橋跡二カ所を見ることができ、サハリンでの石油採掘の歴史を知ることができた。
第二部は、妹を失った宮沢賢治の1923年夏の樺太での足跡を辿るのがメーンで、筆者二度目のサハリンである。
本来は、宗谷海峡を賢治がたどった稚泊航路(稚内と大泊〈現コルサコフ〉を結ぶ連絡船)に変わる船で向かう予定が、運航中止となり、成田からの飛行機でユジノサハリンスク(豊原)へ飛ぶ。
さらに、賢治が『銀河鉄道の夜』のモチーフとなったという泊栄線(大泊―豊原―栄浜〈現スタロドゥプスコエ〉)に乗ることを目的としていた。しかし、この路線はもちろんサハリン全島での鉄道が改軌(1,067㎜→1,520㎜)工事の為、運行休止ということで、楽しみにしていた鉄道に乗れず仕舞いとなった。
宮沢賢治の文学については、教科書に載っているような有名作品しか読んでないし、詩は難しく、全然理解ができないので、第二部に関しては、なにもいえず、梯教授からの講義を受けているという様相である。
ただ、痛快に思えたのは、彼の『青森挽歌』の初めの方の「わたくしの汽車は北へ走ってゐるはずなのに/ここではみなみへかけてゐる」という部分について、多くの研究者たちは、「この部分は賢治の心象をあらわした表現として思想的・哲学的に解釈がなされることが多い。」(165頁)という。
しかし、著者は、地図を開き、東北本線(現「青い森鉄道」)のルートを見て、話はもっと単純で、賢治は汽車の走っているとおりに詠んだのだと記す。つまり、これまで北上していた線路は、小湊駅から筒井駅に向かって南西に向かっているのだ。そして、『青森挽歌』は、ほぼ南に向かって走る浅虫温泉駅前後の海が見えるあたりで書かれたのであろうと類推する。
先に著者の好奇心は旺盛だと記したが、第二部でも変わりなく、1890年にサハリンを訪れ、『サハリン島』を著わしたチェーホフや村上春樹、そしてチェーホフがしばしば取り上げた農学者ミツーリや古代人遺跡を発見した鉱山技師ラパーチン、賢治の詩に出てくるノーベル賞学者ファント・ホッフへと興味の対象は限りがない。
本書のカバーの袖に「賢治の行程をたどりつつ、近現代史の縮図をゆく。文学、歴史、鉄道、そして作家の業。すべてを盛り込んだ新たな紀行作品!!」とあるが、まさにその通りの読み応えのある作品であった。
また、KADOKAWAの柘植青年との寝台列車内やノグリキの博物館でのやりとりなども面白く、ぜひ台湾の現役路線、廃線探訪紀行を書かれることを期待してやまない。
本書は、重版が決定し、本屋大賞にもノミネートされたと聞いている。鉄道ファンだけでなく、多くの方に読んでほしい。