最近続けて面白い本(新書)に出会った。いずれも鉄道を取りあげながら主題は政治家であり、ガード下という鉄道本体から一歩引いたところからの視点の付けどころが興味を誘った。

まず、『鉄道と国家』(講談社現代新書)は、「我田引鉄」の近現代史という副題が付けられているように、政治家が路線の敷設に関わった経緯が綴られている。著者は、まず、まえがきで鉄道に公共性が不可欠の要素がある以上、その存廃が政治の力に左右されるのは宿命だ、と記す。
第1章、鉄道は国家百年の大系は、鉄道の創業期における軍との関連が述べられる。
第2章は、日本の鉄道を創った政治家たちで、取り上げた政治家は、鉄道の父・井上勝、広軌論者・後藤新平、鉄道官僚から大蔵大臣となり、新幹線の財源を確保した佐藤栄作の3人である。
第3章「我田引鉄」で生まれた鉄道では、建主改従論の政友会と改主建従論の憲政会の二大政党の政争に翻弄されたことで有名な大船渡線の陸中門崎~千厩間のナベヅル(鍋弦)線と中央本線の岡谷~塩尻間の辰野経由を誘致した伊藤大八の「大八廻り」、上越新幹線と田中角栄をとりあげる。
この三者のなかで、大八廻りは、『辰野町誌』の記載では、伊那谷経由から木曽谷経由に決定後も鉄道局長であった伊藤が、議案書に「辰野経由」の文字を書き加えた結果だ、といわれている。しかし、この真偽はつまびらかではないという。それよりも岡谷~塩尻間の塩尻峠の勾配が問題であったといえる。後に土木技術の発展により塩嶺トンネルの開通で短絡することができたことからも地形上の理由が大きかったといえよう。
第4章は政治が生み出す停車場として大野伴睦と岐阜羽島駅、荒船清十郎と深谷駅、嘉田由紀子と南びわ湖駅のケースが取り上げられる。有名な岐阜羽島駅は大野が無理強いしたように伝えられるが、岐阜県内に一カ所も駅がないことに対し、計画ルートを変更することのない範囲内で設置したものだということが分かる。
深谷駅のケースは駅の設置ではなく、大臣という職権を濫用して急行を停車させたもので、当時の新聞をにぎわせた。南びわ湖駅については、滋賀県知事選挙の争点になり、結果として設置が中止になった事例である。
第5章、鉄路存亡を左右する政治の力では、「鉄道は地方発展のためにやむを得なければ赤字を出してもよい。それが国有鉄道の役割である」と主張した田中角栄、日本一の赤字路線であった美幸線の存続運動を先頭に立って旗を振った長谷部秀見・美深町長、東日本大震災で被災した鉄道に対する復旧施策を取り上げ、「ビジネスレベルでのみ社会資本整備を見ようとする姿勢」がローカル線を消してきたのではないかと問う。
最後の第6章は、海外への日本鉄道進出ということで、新幹線、高速鉄道の海外進出に対する政府の関わりと注意を提起している。特に中国への新幹線輸出におけるJR東海と東日本の姿勢の違いを知らされる。
本書の内容の多くは、既知のものであるが、佐藤栄作や大野伴睦のいきさつなど知らなかったこともあった。鉄道など公共交通は社会資本であり、簡単に民営化したり、単に赤字だからということで廃止に走ったりしないことが常識化する社会になってほしいものである。

『「ガード下」の誕生』は、副題が鉄道と都市の近代史とあるように、ガード下(高架下)の誕生から居酒屋をはじめとする利用の変遷についての歴史を描いたものである。
Ⅰは、ガード下とは何か?―その定義と魅力を記すが、その利用形態については、駅の構内売店などと違い、鉄道各社の社史などでも触れられていないという。
Ⅱの生命あふれるウラ町・ガード下の誕生は、本書のメーンといってもよく、国道駅(横浜)、有楽町駅~新橋駅、万世橋駅、上野駅~御徒町駅、秋葉原駅下、御徒町駅~秋葉原駅、浅草橋駅下、両国駅、日暮里駅周辺(以上東京)、美章園駅(大阪)、元町駅~神戸駅、御影駅(以上神戸)の12のガード下の生い立ちやその魅力を紹介する。
JR鶴見線の国道駅は、一昨年訪問したことがある駅で、都心では珍しい無人駅である。店もほとんど閉まった薄暗い高架下はアーチが並ぶ美しさの反面、人も余り通らず、気持ちのよいものではない。そんなこともあって本書に記されている住宅には気付かなかった。

新橋から有楽町にかけてのガード下の飲み屋街は有名である。通常、ガードといえば、鋼鉄製の鉄橋を思い浮かべるが、赤レンガのアーチが続く高架橋もガードの一種である。新橋から東京駅へと続くこの高架橋は、ドイツの鉄道技師フランツ・バルツァー(1857-1927)の手によるものである。著者はこの高架橋をイギリス人ではなく「なぜ、ドイツ人に依頼したのか不明だが、日本の中心部においてはドイツの鉄道技術が導入されていた」と書き(p80)、ベルリンのガード下という見出しを設けながら具体的な説明を書くことなく、写真のキャプションに「意匠・デザインなど、ベルリン高架鉄道の設計思想を受け継いでいる」とのみ書くのは少々不親切である。
また、バルツァーがそのベルリンの高架鉄道に従事していたことをご存知ないようだ。参考文献リストには載っていないが、例えば、林章氏の『東京駅はこうして誕生した』(ウェッジ選書・2007)を読めば、この高架橋を提案したのは、日本鉄道のドイツ人技師のヘルマン・ルムシュッテル(1844-1918)であったこと、彼もベルリン高架鉄道に従事していたこと、バルツァーが1898(明治31)年に当時、鉄道を主管していた逓信省の工務顧問になったことが書かれている。多分、彼がベルリンで高架鉄道に従事していたことが招聘につながったのではないだろうか。
今、注目されているガード下が御徒町駅~秋葉原駅のガード下に整備された「2k540 AKI-OKA ARTISAN」で、ものづくりをテーマにしたもので、視察が絶えないという。
Ⅲ 高度経済成長下に誕生したガード下―その再生とオモテ化、Ⅳ 新時代に挑むガード下―ホテル・保育園… の2章では、ガード下の利用が、これまでのガード下が副次的に使用されたのとは違い、はじめから用途が決められて建設されたといってよい。しかし、高度経済成長下に生まれたガード下も経年を経て再生に向かっており、現代のガード下は環境に配慮されたものとなっている。
これまで鉄道建築物としてのガード自体についてを研究することはあっても「社史にも書き込まれない鬼っ子として誕生した「ガード下」は、それまでの既成観念の破壊と新たな価値を創造した」(p218)というガード下についての考察は、なかったような気がする。路上観察学的な見地から見てもガード下は興味深く読んだ一冊である。